高札(こうさつ)とは、おもに江戸時代(えどじだい)に、きまりなどを住民に知らせるために建てられたものです。この高札は江戸時代に町田村(現在の下野市町田)で使われていたもので、無許可(むきょか)に鉄砲(てっぽう)を撃(う)つ者がいた場合には、役所に知らせるようにとの内容のものです。
この高札のくわしい内容は、無許可に鉄砲(てっぽう)を撃(う)つ者や「留場(とめば)」といわれる領主(りょうしゅ)が定めた禁猟区(きんりょうく・狩りをしてはいけない場所)の中で鳥をとる者を捕(つか)まえたり見つけて役所に知らせた場合には、褒美(ほうび)を出すとして鉄砲撃ちの密告(みっこく)を促(うなが)したものです。
この法令(ほうれい)は、江戸時代の享保(きょうほう)6年(1721)に幕府(ばくふ)が定めたもので、享保元年(1716)に幕府が鷹場(たかば・狩りをする場所)の管理(かんり)することとなったことから、江戸の周辺では狩猟(しゅりょう)が制限(せいげん)されました。こうした制度(せいど)を受けて、この高札のように密猟者(みつりょうしゃ)の取り締(し)まりや探索(たんさく)を強化するために、褒美(ほうび)による通報(つうほう)を促(うなが)す方法が行われ、江戸時代の終わりまで続きました。高札の文章(ぶんしょう)の終わりに「塩谷伯耆(しおのやほうき)」とありますが、この人物は秋田藩(あきたはん)の家老(かろう)であったことがわかっています。このことから秋田藩領内(あきたはんりょうない)で使用されたものであるとわかり、当時の町田村が秋田藩の佐竹氏(さたけし)の支配を受けていたことから、江戸時代に町田周辺で使用されたものと考えられます。