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- 下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)
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下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)は、もともと下野国(しもつけのくに)出身(しゅっしん)で、都(みやこ)で貴族(きぞく)となった下毛野氏(しもつけのし)を代表する人物です。飛鳥時代(あすかじだい)に都で活躍し、下野薬師寺(しもつけやくしじ)の建設(けんせつ)に関(かか)わったと考えられています。
古麻呂(こまろ)に関する一番古い記録(きろく)は、『日本書紀(にほんしょき)』にある689年10月で、この時すでに都の貴族である直広肆(じっこうし)という位(くらい)にありました。その後、大宝律令(たいほうりつりょう)の選定(せんてい)に携(たずさ)わった功績(こうせき)から、当時の大臣(だいじん)にあたる兵部卿(ひょうぶきょう)や式部卿(しきぶきょう)になりましたが、709年12月に亡くなりました。 - 道鏡(どうきょう)
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道鏡は、奈良時代の僧(そう・お坊さん)で、現在の河内国(かわちのくに・現在の大阪府)出身です。称徳天皇(しょうとくてんのう)に信頼(しんらい)され、天皇に次ぐ地位(ちい)である法王(ほうおう)にまでのぼりつめました。しかし、称徳天皇が亡(な)くなると、道鏡は、造下野国薬師寺別当(ぞうしもつけやくしじべっとう)として下野国(しもつけのくに)に左遷(させん)されました。
下野国で道鏡がどのようなことをしていたかはわかりませんが、772年4月、道鏡は下野の地で亡くなりました。正確(せいかく)なお墓の場所はわかりませんが、龍興寺境内(りゅうこうじけいだい)の古墳(こふん)が「道鏡塚(どうきょうづか・道鏡の墓)」として伝えられています。 - 孝謙天皇(こうけんてんのう)
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孝謙天皇(718~770)は、奈良時代に天皇(てんのう)となった史上6人目の女性(じょせい)の天皇で、淳仁(じゅんにん)天皇に、天皇の位(くらい)を譲(ゆず)った後、764年に再びに称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位(そくい)し、770年に亡(な)くなりました。
下野市内の上大領(かみだいりょう)には、孝謙天皇神社(こうけんてんのうじんじゃ)がありますが、次のような言い伝えがあります。「信頼(しんらい)していた道鏡(どうきょう)というお坊さんが、下野薬師寺(しもつけやくしじ)に左遷(させん)されてしまったため、天皇みずから下野国(しもつけのくに)まできましたが、道鏡に会うことなく亡くなったため、神社のある場所にお墓を作った。」というものです。事実(じじつ)とはちがいますが、道鏡に関する伝説(でんせつ)として伝えられています。 - 薬師寺公義(やくしじきみよし)
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薬師寺公義(生没年不詳)は、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)に活躍(かつやく)した武士で、市内の薬師寺を本拠地(ほんきょち)としていた薬師寺氏の一族(いちぞく)と考えられます。
『太平記(たいへいき』では足利軍と楠木(くすのき)・新田(にった)軍が戦った湊川(みなとがわ)の戦(たたか)いでの活躍(かつやく)の様子が記されているなど、数々の記録(きろく)が残されています。
公義は武士としての活躍ばかりでなく、歌人(かじん)としても有名で『元可法師集(げんかほうししゅう)』を残すなど、文化人としての一面もありました。 - 児山朝定(こやまともさだ)
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児山朝定(こやまともさだ)は、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の次男・多功宗朝(たこうむねとも)の子とされている人物で、現在栃木県指定史跡(していしせき)となっている児山城(こやまじょう)を築城(ちくじょう)したと考えられています。どのような人物であったかは史料(しりょう)がなく、くわしくはわかりませんが、鎌倉時代の1283年に宇都宮城にあった一向寺(いっこうじ)というお寺のお坊さんを招(まね)いて児永山大通寺光明院(じえいざんだいつうじこうみょういん・今の華蔵寺〈けぞうじ〉)を建てたともいわれます。
- 芳賀高経(はがたかつね)
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芳賀高経(1497-1541)は、真岡城(もおかじょう)を本拠地(ほんきょち)にしていた宇都宮氏の家臣(かしん)です。宇都宮氏の家臣の中でも有力(ゆうりょく)な人物でしたが、宇都宮家(うつのみやけ)が混乱(こんらん)するなか、1538年に児山城(こやまじょう)に籠城(ろうじょう)したとの記録(きろく)が残されています。
- 元寿僧正(げんじゅそうじょう)
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元寿僧正(げんじゅそうじょう)は、京都の智積院(ちしゃくいん)というお寺の住職(じゅうしょく)となったお坊さんで、1575年に市内の田中で生まれました。14歳で出家(しゅっけ)し、奈良の長谷寺(はせでら)や智積院(ちしゃくいん)で修業(しゅぎょう)を行い、徳川家康(とくがわいえやす)や徳川秀忠(とくがわひでただ)に学問の講義(こうぎ)をするなどしました。その後、智積院の化主(けしゅ・住職)となり、1648年に亡くなりました。
- 佐藤功一(さとうこういち)
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佐藤功一(さとう こういち)(1878~1941)は、昭和(しょうわ)の初め頃の代表的な建築家(けんちくか)で、以前の栃木県庁舎(とちぎけんちょうしゃ・現在の昭和館)を建築したことで知られています。佐藤功一は市内小金井の大越家(おおこしけ)に生まれ、栃木県尋常(じんじょう)中学科第5級(現在の高校2年)まで栃木県で学びました。その後、仙台の二高から、東京帝国(ていこく)大学に進み、明治36年(1903)に卒業。学生時代に大工棟梁(だいくとうりょう)の佐藤家(さとうけ)に下宿(げしゅく)していたことから、佐藤家の養子(ようし)となり、佐藤を名乗るようになりました。卒業後は、早稲田(わせだ)大学などで活躍(かつやく)した後、大正7年(1918)に建築事務所(けんちくじむしょ)を開き、建築設計(けんちくせっけい)に取り組みました。手がけた作品は早稲田大学大隈記念講堂(おおくまきねんこうどう)や日比谷公会堂(ひびやこうかいどう)など233件にのぼりましたが、昭和16年(1941)6月に亡くなりました。