下野市の文化財
文化財の詳細情報
▲薬師寺回廊調査写真
▲薬師寺航空写真
▲薬師寺跡伽藍配置
下野薬師寺は、大和川原寺系の軒先瓦が出土することなどから、7世紀末に創建されたと考えられています。創建の理由は不明ですが、その背景には、大宝律令の選定に参加し、式部卿正四位下で卒した下毛野朝臣古麻呂の強い関与を想定することができます。天平年間には国の機関である「下野薬師寺造寺司」が設置され、749年に筑紫観世音寺と共に500町の墾田が認められるなど、寺の造営が国家事業として進められていたことがわかります。その後、761年には、僧の修行の場である戒壇が置かれるなど仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めます。まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきたこと、そして、生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたことです。これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日。以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。そして、“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野薬師寺の3カ所と定められました。これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より関東・東北の僧に戒を授けることのできる、大変重要度の高い寺院となり、ますます隆盛を極めることとなります。
しかしながら、下野薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまいました。また、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、それぞれが独自に戒を授けるようになりました。それに伴い、これまでの「三戒壇」の地位もゆらぎ、次第にその役目が失われていきました。その後、廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興。14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために、全国に安国寺の建立を発願し、そのとき、下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれています。しかしながら戦国動乱の時代、1570年11月に、下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと、『薬師寺縁起』が伝えています。その時、寺の貴重な記録も失われました。
これまでの発掘調査により、外郭施設(板塀)の規模が東西約250m南北約350m、瓦葺回廊の規模が東西約110m、南北約102mにも及ぶことが判明しています。従来の調査では、回廊の中心部に金堂が存在すると考えられていましたが、最近の調査で創建当初の塔であることが判明しました。また、回廊の東にある塔は、創建の塔が焼失しために、この場所に9世紀代に再建されたものであることが明らかになっています。この他、回廊内には、規模の異なる基壇建物が存在することが明らかになりました。これにより、下野薬師寺の伽藍配置が一塔三堂形式である可能性も考えられます。