下野市の文化財

  • 薬師寺城跡
    やくしじじょうあと
  • 文化財の種類
  • 史跡
  • 文化財指定団体
  • 指定なし
  • 文化財が造られた時代
  • 鎌倉・室町・安土桃山時代
  • 文化財の所在
  • 下野市薬師寺2975-1
  • 概要
  •  薬師寺城跡は、小山長村の子である小山五郎左衛門尉朝村が寛喜年間(1229~1232)に築城したと考えられています。現在は、堀と土塁が部分的に残されているのみで、当時の姿を偲ぶことはできません。しかし、付近には館野前、館野北などの字名が残されていることや、1947年に撮影された米軍の空中写真で確認することのできる堀跡の範囲から、城の規模はかなりの大きさであったことがわかります。

文化財の詳細情報

 

薬師寺城跡遠景

▲薬師寺城跡遠景

城は東西を低地に挟まれた舌状台地上に築城され、北側に堀や柵を設置すれば容易に守りの堅い城とすることができる場所に位置しています。薬師寺周辺は築城当時、小山氏と北の宇都宮氏の勢力の接点に位置したことから、小山氏の一族である朝村を置いて薬師寺城を築かせ、防衛の拠点としたと考えることができます。
 薬師寺城が下野薬師寺氏の拠点であったことが確認できるのは、室町期永享12、13年(1440、1441)の結城合戦の頃までで、これ以降の薬師寺氏は宇都宮氏の家臣となり、宇都宮城に在城するようになり、代わって下総結城氏が薬師寺城を支配し、支城化したと思われます。その後、薬師寺城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の宇都宮仕置直後または、慶長6年(1601)の下総結城氏の越前転封により廃城となったと考えられます。
 過去に実施された発掘調査では、薬師寺城に関係すると考えられる東西方向の堀が3か所で確認されています。上幅が7~9m、深さが3~4.5mで、断面が薬研堀状のものと逆台形のものが確認されました。出土したカワラケが13世紀初頭から15世紀後半にかけてのものと想定されることから、寛喜年間に築城されたという伝承が裏付けられました。

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