下野市の文化財
文化財の詳細情報
▲北台遺跡(推定東山道跡)
当時日本国内は五畿七道に分かれていました。五畿とは、山城・大和・河内・和泉・摂津の都を中心とした近畿地方の中央部です。七道とは、都から全国の国府を結ぶ幹線道路で、西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道の7つの道がありました。各国はこの街道を中心に、行政区分がされていて、古代下野国(栃木県)は東山道に属していました。古代の官道は駅路とよばれ、当時の決まりによると駅馬を利用する役人や公用で旅をする人たちの往来の重要度、頻度などによって、大路・中路・小路にわけられていました。大路は、外交・対外関係・国防等に重要な山陽道とそれに続く大宰府(福岡県太宰府市)まででした。山陽道についで重要な駅路は東海道と東山道でした。この二つの道は蝦夷の征討と東北地方の開拓が中央政府の最大の関心事であったので中路とし、他の駅路は小路とされました。これら七道には原則として30里(約16km※中国における単位(1里≒500m))ごとに駅家(駅)が設けられ、それぞれの駅家には駅馬がおかれました。駅馬は大路の山陽道には20匹、中路には10匹、小路には5匹と決められていました。駅家とは公用で往来する役人たちが利用する施設で、宿泊や休憩ための施設や馬小屋(厩舎)などがありました。下野国内を通っていた東山道について『延喜式』(927年完成)は、駅家として足利・三鴨・田部・衣川・新田・磐上・黒川の7駅に馬10匹と安蘇・都賀・芳賀・塩屋(塩谷)・那須の5郡に伝馬5匹を配したことを記していますが、道がどこを通っていたのかは記されていません。
※東山道は東山道諸国(近江国・美濃国・飛騨国・信濃国・上野国・武蔵国(771年に東海道に編入)・下野国・陸奥国・出羽国)の国府を結んだ幹線道路(駅路)です。