八幡宮の現在の本殿は寛文2年(1662)、拝殿は翌年に、いずれも佐竹右京大夫(三代藩主の義処か)により再建されたものと考えられています。
本殿は、一間社流造り、亜鉛鉄板葺の比較的小規模なもので、身舎の正側面三方に高欄つきの切目縁を廻し、両脇背後に脇障子を立て、前面に向拝を設けています。拝殿は、桁行5間、梁間3間の入母屋造り平入りの亜鉛鉄板葺で、前面に1間の向拝を張り出し、正側面三方に切目縁を廻しています。全体的に装飾が少なく、県内の社寺で装飾化が進む18世紀以前の様相を示していることから、佐竹氏による改築と考えられます。
八幡宮は、貞観17年(875)9月、石清水八幡宮の祭神を勧請して東北守護の大神としたと伝えられますが、一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮から分社されたものともいわれています。いずれにしても当初は、関東北部の総社として神主1名、禰宜5名、社家11、下社家23、神戸55戸、神領550町歩を賜る大社であったとされています。天喜4年(1056)8月には、源頼義が奥州討伐(前9年の役)の途中に立ち寄って先勝を祈願しましたが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失しました。奥州平定後、頼義・義家親子は再び八幡宮を訪れ、鉄弓3張、鏑矢6本を奉納したといわれています。