下野市の文化財

  • 八幡宮本殿
    はちまんぐうほんでん
  • 文化財の種類
  • 建造物
  • 文化財指定団体
  • 文化財が造られた時代
  • 江戸時代
  • 概要
  •  川中子の八幡宮は、もともと個人の氏神だったものが明治5年に村社となり、八幡宮と改称して村の鎮守となったもので、主祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)です。
     現在の本殿は、もともと大正5年に富田宿(現栃木市大平町)の八坂神社から移設されたもので、創建は天保7年(1836)と考えられます。本殿は典型的な一間社流造りで、屋根は銅板葺き、彫刻は比較的質素ですが、関東各地で活躍した磯辺儀佐衛門信秀またはその一門の作とみられます。現在本殿の周りには覆屋が造られていることから保存状態も良く、近世神社建築の貴重なものです。

文化財の詳細情報

八幡宮本殿

▲八幡宮本殿

 現存する本殿は、この地に建立されたものではなく、大正5年に富田宿(現栃木市大平町)の八坂神社から移設されたものです。創建は天保7年(1836)と考えられ、その際に奉納された向拝水引虹梁上の龍の彫刻に次のような墨書が残されています。「天保七年申年五月二十九日 當町願主 磯邊信秀作 三代目凡龍斎 敬俳人」このことから、当時富田宿を本拠地とする彫物大工として知られた磯辺家の三代目・磯辺儀佐衛門信秀(凡龍斎)が本殿の竣工を祝って奉納したものであることが分かります。なお、この本殿は、当初は神倉大権現の本殿として建立されましたが、明治44年に八坂神社に合社されたものです。
 本殿は典型的な一間社流造りです。屋根は銅板平葺きですが、もとは栩葺きであったと考えられます。基礎は亀腹で、その上に土台を置き、4本の身舎柱を立てます。身舎柱は円柱で(下部は八角形)、切目長押、内法長押、台輪で軸部を固め、背面を除く三方にくれ縁を廻して両側面奥に脇障子を建てています。軒は二軒繁垂木、組物は出組、中備は詰組です。妻飾は二重虹梁で、上部に力士像を乗せて棟を支えています。向拝は1間で浜床を備えます。
 近世末期の神社建築を特徴づける装飾彫刻に関しては、比較的質素です。胴羽目に彫刻が用いられていないことが大きな原因ですが、その他の部分には特徴的な彫刻が目立っています。すなわち、脇障子の孟宗(左)と養老の滝(右)を題材にした透かし彫、手鋏の丸彫、木鼻の獅子や象(向拝)の丸彫、そして磯辺儀佐衛門信秀作の墨書が残る龍の丸彫などで、いずれも欅材による素木の彫刻です。このうち、ひとまわり大きい獅子の丸彫(4個)は本殿を移設した際に補充されたものであることが、それぞれに残された墨書(「大正六年四月 永井貞一郎」)によってわかります。それ以外の彫刻も、その出来栄えからみて、磯辺儀佐衛門信秀またはその一門の作とみられます。
 八幡宮本殿は、覆屋の中にあることもあって、保存状態は極めて良好です。江戸時代末期の神社本殿としては、胴羽目部分に彫刻を欠くことがやや物足りませんが、それ以外には時代の傾向を示す精巧な彫刻が完備されています。特に、向拝水引虹梁上の龍の丸彫彫刻には、関東各地で活躍した名工磯辺儀佐衛門信秀の墨書銘が残されていて、その他の彫刻も彼の手になる可能性を示唆しています。この本殿が磯辺一族の出身地に創建されたものであることを考えると、これらの彫刻は、信秀にとっても自信の作であったでしょう。

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