一里塚は、徳川家康が慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点に、東海道・中山道及び北陸道につくらせ、後に全国に広まったといわれます。道程の目印として1里(約4キロメートル)ごとに塚を築き、榎や松を植えたもので、『官本当代記』によると、「一里塚五間四方也」とあり、一辺約9mの方形に築かれていたとされています。
9件のクチコミがあります。
ともぞう/40代/女性/佐野
日本橋から22番目の塚で、2つの塚の間を通っているのが日光街道とのこと。昔の人がこれらの塚を目印として旅をしていた様子を想像すると楽しいです。
さくら/40代/女性/宇都宮
国道4号線沿いにあります。西と東の二つの塚の間を当時の日光街道が通っていたそうです。当時の旅人は、このような塚で江戸からの距離を知りながら旅をしていたのですね。今は、塚に大きな木が立っていて木陰ができ、小さな公園のようになっています。先人もここに腰を下ろし旅の休息をとったりもしてのでしょうか。
ノア/40代/女性/宇都宮
国道4号線沿いにあり、ポケットパークとして整備されています。2つの塚がきれいに残っているのは、珍しいそうです。それぞれの塚には大きなエノキとクヌギが植えられていて、その間が昔の街道だったのですね。江戸時代の人々が、一里(約4km)ごとに建てられた一里塚を目印にしながらここを通ったと思うとロマンを感じます。
ぴかりん/40代/女性/日光
一里塚は江戸の日本橋から一里(約3.927キロメートル)ごとに築かれたもので、国指定史跡である小金井一里塚は22番目で、江戸から84.4キロメートル(実際は90キロメートル以上あるそうです)とされていたそうです。距離の目安として塚はシンボルだったのですね。塚は四角形だったようですが、今では丸みをおびていて大きな木が目印です。この2つの塚の間にある道が江戸時代の五街道のひとつ、日光街道で主要道路だったようです。この細い道を行き来をしていたのだなと思うと、感慨深いです。
まめっち/40代/女性/市貝
初めて見たときは、巨木が塚だと思いましたが、案内板を見て、二つの丸い山のような部分が塚で、その間に通っている道が日光街道だったと分かりました。
はる/40代/女性/宇都宮
国道4号線沿いに突如現れる背の高い木。木の根元を見ると土が盛られていて、これが塚なのだそうです。二つある塚のうちの一つしか木は植わってませんでしたが、日光街道の一里塚で二つとも現存しているのはここだけなのだそうです。国道4号が江戸時代からの日光街道を基に作られているのは知識としてあっても、その痕跡を実際に見ることができるとやはり感慨深いものがありますね。
しゃぼんだま/40代/女性/大田原
江戸日本橋から22里(88Km)の地点にあり、二つの塚がほぼ完存していることなどから、日光道中で唯一国指定史跡に指定されているのだとか。二つの塚の間が当時の道幅だったのですね~。当時の様子を少しだけうかがい知れたような気がしました。
ななっち/50代/女性/小山
9m四方に築かれた2つの塚の間を通っているのが江戸時代の日光街道で、当時の道幅がそのままわかります。ここを当時の人々が通る姿を想像してしまいますね。この周辺の日光街道はその姿もないのですが、この一里塚だけがその当時をとどめていることが、逆に不思議にも思います。
みおみお/30代/女性/宇都宮
国道4号線沿いにある史跡で、江戸から22番目の22里(約86km)にあたる塚だそうです。昔の人は、こういった一里塚を目標に旅を続けていたのでしょうね。